新庄剛志ヤバい伝説18選!記録より記憶に残る男の魅せ方がすごい!

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新庄剛志さんと言えば、選手としても一流でしたが、話題の多さから「記録より記憶に残る選手」として有名でした。

持ち前の明るくて人懐っこい性格とスター性があり、現役時代は華のある選手として知られていました。

そんな新庄剛志さんには、数々の伝説が存在します。

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新庄剛志の高校時代の伝説は?

新庄剛志さんは、西日本短大付属高校の野球部で3年間を過ごしていますが、高校時代から伝説がありました。

高校時代の新庄剛志。

伝説1:強肩は高校時代が全盛期だった!

現役時代の新庄剛志さんは「最高のフィジカル面を武器に飛び抜けたパフォーマンスを出す」という魅力を持った選手でした。

それは、高校時代から新庄剛志さんの武器で、肩に関しては、高校時代が全盛期でした。

新庄剛志さん自身も「スローイングが高校が一番全盛期だった」と話しています。

新庄剛志さんの強肩はどのようにして作られたのでしょうか。

それは、造園業を営んでいた父・英敏さんの仕事を手伝いながら石投げをして自然と肩が鍛えられたそう。

守備は高校時代から一級品で、中継に入った野手の高さに投げた送球が、ライナーでバックネットに直撃したこともあるんだとか。

新庄剛志さんは、肩だけでなく人並外れた体力を持っており、同期の中で頭一つ出た体力を持つ選手でした。

新庄剛志さんの同期で、現在は西日本短大付属高校の野球部監督を務める西村慎太郎さんがどうしてそんなに走れるのかを尋ねたところ

中学の時の練習が一番厳しかったと(新庄は)言いました。すごく走らせられたそうですよ。中学の時も全国大会出てるチームだったんで

高校野球ドットコム:「「今まで見たことない、あんなボール投げるやつ」新庄剛志の同期が語る、新庄の知られざる素顔!【前編】」

という返答だったとのこと。

新庄剛志さんは、福岡市立長丘中学校の軟式野球部に所属しており、当時の監督も新庄剛志さんの実力を認めていて、小学生の時から走力・肩力が桁外れと評価されていました。

伝説2:ズバ抜けた集中力だった!

高校時代の新庄剛志さんは、高校2年生の冬頃からプロになるという明確な目標を持って練習に取り組んでいました。

素振りでも汗だくで湯気が出て、本当に声を掛けられないくらいの集中力を持って自主練習していたんだとか。

また、夜中に素振り練習をしていたときに、親から電話がかかってきたと伝えても電話に出ることはせず、練習を続けていたそう。

チームメイトが声をかけられないくらいのズバ抜けた集中力と、オーラをまとっていた新庄剛志さん。

当時からオンオフの切り替えがうまく、スイッチが入ったときはすごかったそうです。


当時の監督は、社会人野球で新日鉄堺でも監督を務め、野茂英雄さんも育てた浜崎満重さんでした。

浜崎満重さんはチームにレベルの高い野球を求めていましたが、新庄剛志さんはそれを黙らせる勢いで取り組み、途中からプロに行くだろうと思っていたそうです。

伝説3:気遣いがやばい!

当時から目立ちたがり屋だったという新庄剛志さんは、誰よりも野球が上手でしたが、ミスをしたチームメイトを責めることは一度もなかったそう。

新庄剛志さんは、昔から人を良く見ており、気遣いがすごかったんだとか。

当時から、チームメイトに対して的確なアドバイスを行ったり、相手をその気にさせて褒めるのが上手だったそうです。

伝説4:プロ入り取り消しの絶体絶命の危機に遭遇していた!

ドラフト会議で阪神タイガースから5位指名を受けており、スカウトの横溝桂さんからは「打力:B、走力:A、肩力:特選A」を受けていた新庄剛志さん。

しかし、高校卒業間近に、プロ入り取り消しの絶体絶命の危機に遭遇してしまいます。

それは、 学期末テストの最中に理不尽な理由で叱られたクラスメートに納得できなかったため、教師と言い合いになり手を出してしまいました。

野球部の監督をはじめ色んな教師から叱られ、プロには行かせないという絶体絶命の危機に陥っていたところ、父・英敏さんが駆け付け、教師たちに必死に頭を下げて事なきを得ました。

このときにケジメとして五厘刈りをさせられ、その頭でタイガースのキャンプ入りをすることになりました。

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新庄剛志のプロ時代の伝説は?

1990年に阪神タイガースに入団し、2001年からは大リーグ、2004年からは北海道日本ハムファイターズで活躍し、2006年に引退した新庄剛志さん。

プロ時代にも数々の伝説を残しています。

伝説5:センスがないからやめます!発言

1995年のオフの11月19日に行われた契約更改交渉後の会見にて、「野球に対するセンスがないって見切った」と突然の引退宣言をしています。

引退後はサッカー選手になると宣言しましたが、 「騒動を気に病んだ父が病に伏した」 という連絡があり、大好きな父のために野球をすることを選択した新庄剛志さん。

結果、翌々日の21日に発言を撤回します。

当時の新庄剛志さんは藤田平監督とソリが合いませんでしたが、藤田平監督を悪者にはしたくなかったため、「自身のセンスがない」という表現をしたんだとか。

この一連の騒動は周囲を唖然させてしまいましたが、新庄剛志さんの良さが分かるエピソードではないでしょうか。

伝説6:応援旗に当たりホームランがエンタイトルツーベースに!

1995年6月20日の横浜ベイスターズ(現:横浜DeNAベイスターズ)戦で、9回表に左翼フェンス最上部付近への大飛球が観客により振られている応援旗(新庄の名前入り)に包まれた後にグラウンドへ落下してしまいます。

この出来事に対し審判団は協議の末、二塁打として判定され、幻の本塁打となってしまいます。

なお、北海道日本ハムファイターズ時代の2004年4月16日の千葉ロッテマリーンズ戦でも、右翼側スタンドの大飛球を最前列の観客がフェンスから身を乗り出して捕球したため、二塁打と判定されています。

伝説7:応援ボイコットを受ける!

1997年7月時点で、打率2割1分台と低迷していたが、オールスターゲームへファン投票2位で選出された新庄剛志さん。

オールスター第1戦で、自身の打席ごとにセ・リーグ応援団による応援ボイコットと一部の観客からの「新庄帰れ」コールが起きてしまいます。

ペットボトル・メガホンがグラウンドへ投げ入れられたことによる試合中断もあり、スタンドのある横断幕には「新庄剛志 そんな成績で出場するな 恥を知れ」と書かれていました。

試合後、ベンチで落ち込んでいると、広島東洋カープ大野豊さんから「若いもんが、そんな暗い顔をしとったらいかん」と励まされたことに感激したそう。

のちに「他のチームの人から、あんな優しい言葉を掛けてもらったのは初めてでした」と振り返っています。

この年は、公式戦でも自身だけ応援ボイコットを受けましたが、負けず嫌いの性格のお陰か、本塁打は20本と4年ぶりの20本台と守備ではリーグ外野手最多13補殺を記録しゴールデングラブ賞を受賞しています。

いつもポジティブな新庄剛志さんですが、引退会見で、「あの時のショックな気持ちは未だに忘れない。(自身は引退するが)選手は一生懸命プレーしているので、例え不調であっても応援して欲しい」と話していました。

伝説8:二刀流に挑戦!

1998年の秋季キャンプで、野村克也監督の発案で外野手と投手の二刀流を目指して練習を開始しました。

野村克也監督は、キャンプでの新庄剛志さんの肩の強さに驚き、「うちのピッチャーの誰よりも速い」と目をつけたそう。

実際に投げたところ、1球目で148km/hという剛速球を投げたんだとか。

1999年のオープン戦で読売ジャイアンツ戦に登板した新庄剛志さんは、ジャイアンツ打線相手に三者凡退に打ち取るなど才能を見せつけますが、この試合で負傷してしまいます。

のちに、「やっぱりピッチャーって面白くないなと思って、嘘ついて足が痛いって言ったんです。簡単に抑えられるから」と話し、ケガは嘘だったと告白しています。

伝説9:敬遠球をサヨナラ安打!

1999年6月12日、ジャイアンツとの首位攻防戦で、12回裏同点一死一三塁の攻撃で槙原寛己投手の敬遠球を打ちサヨナラ安打を記録しました。

新庄剛志さんは、1球目の外角への外し方がやや甘い投球を見逃し、自身は「これくらいの球(外し方)なら打てる」と感じたそう。

2球目の同じような投球を三遊間を抜いて左翼前へ転がしました。

「新庄伝説と言えば敬遠球サヨナラ打」と言われるほど、有名な伝説となっています。

伝説10:「明日も勝つ!」の連敗ジンクスを作る!

ヒーローインタビューで新庄剛志さんが「明日も勝つ!」と言うと、連敗するというジンクスを最初に作ってしまった人と言われています。

1999年6月12日に「明日も勝つ!」を最初に言いましたが、翌日に敗戦し、一週間後にチームは首位から陥落。

その後、1999年9月10日にも「明日も勝つ!」と言ったところ、翌日からタイガースは12連敗という連敗沼にはまってしまいます。

ファイターズ時代にも「明日も勝つ!」と言い放ち、ジンクスが発動せずに翌日は勝利しています。

しかし、タイガースにジンクスが発動したのか翌日から連敗しており、斜め上のフラグ回収をしています。

伝説11:減額契約で大リーグという夢に挑戦!

タイガース時代、人気絶頂だった新庄剛志さんは、2000年のオフにFA権を取得します。

タイガースは引き留めに5年で12億円を提示し、ベイスターズやスワローズが獲得に乗り出しますが、新庄剛志さんは大リーグのニューヨーク・メッツ移籍を決断します。

メッツからは年俸として、当時のメジャー選手の最低保証額2200万円を提示される減額契約でした。

目標のために、人知れずコツコツと努力を積み重ねた新庄剛志さんは、「無謀な挑戦」と言われながらも、自力で開幕ロースター入りを果たします。

123試合に出場、打率.268、10本塁打、56打点という賞賛に値する成績をメジャー1年目に残しました。

結果、翌年から年俸は1億3500万円に大幅アップしました。

伝説12:「札幌ドームを満員にする」「チームを日本一にする」の公約を実現!

新庄剛志さんは帰国後、ファイターズに移籍し、入団会見で 「札幌ドームを満員にする」「チームを日本一にする」の公約を掲げます。

のちに新庄劇場と呼ばれる、独自に考案したファンサービスも積極的に行うなどして1年目の終わりに札幌ドームを満員にします。

そして、新庄剛志さんが引退する2006年には、日本シリーズを制し、日本一に輝きます。

伝説13:オールスターでホームスチール!

2004年7月11日、オールスターゲーム第2戦の3回裏二死三塁の場面で、三塁走者の新庄剛志さんは捕手が投手に返球した瞬間にスタートを切り本塁にヘッドスライディングを決めます。

これは、オールスター史上初となる単独本盗の記録となります。

ヘルメットが脱げていた新庄剛志さんは、腹ばいのまま、両手両足で地面を叩き続けて喜びを表現していました。

オールスター前に「MVPは僕のもの!」という宣言通り、MVPを獲得しました。

伝説14:走者追い越しでサヨナラ幻の本塁打!

2004年9月20日の福岡ダイエーホークス(現:福岡ソフトバンクホークス)戦の9回裏、同点で二死満塁の場面で左翼フェンス奥の三角形の空間へ打球を運びました。

サヨナラ満塁打となるはずでしたが、共に喜び合おうと一・二塁間で待っていた一塁走者・田中幸雄選手と抱き合ったあとその場で一回転したのが「走者追い越し」と判定され、新庄剛志さんの本塁打は取り消しとなります。

すでに、三塁走者の奈良原浩選手は本塁に戻ってきたため、サヨナラゲームは成立しました。

満塁本塁打が消えてしまったことに責任を感じた田中幸雄選手より謝罪を受けましたが、新庄剛志さんは「いいんです。勝ったんだから」と笑顔で返したそう。

新庄剛志さんはヒーローインタビューで「今日のヒーローは僕じゃありません、みんなです!」と発言し、大きな話題となりました。

伝説15:新庄劇場でファンを魅了!

新庄剛志さんは、引退する2006年に様々なパフォーマンスを行っています。

  • かぶりもの
  • バイク入場ショー
  • 地上50メートルからゴンドラに乗り降下
  • イリュージョンショー

試合前のパフォーマンスショーを行う場合は、事前に相手球団や監督からも了解を得るなど気配りをしていました。

また「パフォーマンスは結果を出して何ぼ」という信条を持ち、ショーなどを行った試合でのチームの勝敗・自身の成績にも拘っています。

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新庄剛志の引退後の伝説は?

引退後も、新庄剛志さんは伝説を残しています。

伝説16:知人に裏切られ大金を失う!

引退後はバリ島に移住した新庄剛志さんですが、金銭トラブルに巻き込まれてしまいます。

新庄剛志さんは、プロ入りした頃から金銭管理をすべて任せていた知人が使い込んでしまい、25億円ほどの資産は2200万円となってしまいました。

その後、Aさんは自己破産し、手元には8000万円しか戻ってきませんでした。

現役時代の金銭感覚は「1億円が1000円」だった新庄剛志さんは、このトラブルを機に、超質素な倹約生活をするようになりました。

伝説17:プロ復帰宣言で多くの人に夢や希望を与える!

2019年の47歳のとき、新庄剛志さんは突然プロ復帰宣言をします。

それから肉体改造やトレーニングを続け、現役時代と遜色のない身体に戻します。

そして、翌年の12球団合同トライアウトを受験しますが球団からのオファーは無く、プロ復帰を断念します。

「いくつになっても挑戦した自分に悔いなし!」とコメントし、本気でプロ復帰のために取り組んだ姿は、多くの人を勇気づけました。

伝説18:ケガをおしてトライアウトを受験していた!

実は、12球団合同トライアウトを受験時は、ベストコンディションではなかったという新庄剛志さん。

のちに、5日くらい前に左肩の筋を2本切ってしまい、左肩が上がらなくなってしまったということを話しています。

さらに、2日前に坂道ダッシュをしていたら、ひざの裏を痛めてしまったんだとか。

そのため、本調子には程遠い状態でトライアウトに挑むことになり、自慢の肩と足を見せることが出来ませんでした。

気持ちだけで乗り越え、トライアウトではヒットも打った新庄剛志さん。

もしアクシデントがなかったら、プロ野球選手に復帰した可能性は十分あり得るかもしれませんね。

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まとめ

いかがでしたでしょうか。


新庄剛志さんは、「記録より記憶に残る選手」として知られ、プロ時代をはじめ高校時代や引退後も様々な伝説を持っています。

持ち前の明るさやスター性を持ち、努力家で気配り上手な新庄剛志さんは、ここぞという場面で魅せてくれる人です。

今後は、監督として新たな伝説を残していくのではないでしょうか。

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